江戸時代安永元年(1772)の倉敷村では町場の生活を満たす多様な職人が存在しました。備中国南部では新田地帯を中心に綿作が盛んで、倉敷は玉島と並んでその集散地でした。当時の問屋・質屋・宿屋の存在は、倉敷が地域の流通・金融の中心地であったことを示しています。
江戸時代安永元年(1772)の倉敷村では町場の生活を満たす多様な職人が存在しました。備中国南部では新田地帯を中心に綿作が盛んで、倉敷は玉島と並んでその集散地でした。当時の問屋・質屋・宿屋の存在は、倉敷が地域の流通・金融の中心地であったことを示しています。
江戸時代の初めから倉敷村の運営を担ったのは、古禄(ころく)派と呼ばれる旧家でした。彼らは多くの借地・借家を抱え、問屋や醸造業を営む有力商人でした。 【参照:倉地克直、山本太郎、吉原睦『絵図で歩く倉敷のまち』、吉備人出版(2011年10月)】
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